SAKURAnoTUBOMIの日記

鬱病を経て、息子との不登校生活も経て、日々感じ、学び、感謝。 

季節の移り変わり

この花はなぁ~んだ?f:id:SAKURAnoTUBOMI:20190621203957j:image

今日も雨☔。

最近雨ばかりだから、庭の草がモッサリとしてきた。この写真はブラックベリーの花😊モッサリとした雰囲気の中にポンっと咲いていた。薄~いピンクがかった花びら。ぷっくりしてて可愛かった。まだ苗は小さく、昨年は少しだけ収穫もあった😊とても美味しかった!

よく見ると、これから咲く初夏の花たちが蕾をぐんと伸ばしてる。

エキナセアも今年は一段と太く、背も高い。蕾の付き方も数が多いと感じる。

ホタルブクロは4本くらい生えているが、実は昨年まであることに気付かなかった。小さかっただけなのか、雑草と間違えて抜いてしまっていたのか…。まだ蕾ができる前に、母が気がついた。調べると葉がよく似てる。母が帰った後も気をつけていた。蕾ができ始めて確信した。でも、まさか4本も生えてるなんて!嬉しい(*´ω`*)🎵

そして我が家のヤマユリ達。どのヤマユリも勝手に生えてきたのだが、庭の奥に1本伸びたヤマユリは我が家で1番はじめに花を持ったBOSS。その周りに子供と思われる小さなヤマユリ達が花を持つ日を夢見て並んでいる。

BOSSヤマユリは、初めて一輪だけ咲かせたと思ったら、翌年には10個程咲かせた。今年も太く大きく伸びている。

道路沿いに6、7本伸びたヤマユリは、BOSSに続き、立派な花を咲かせていたが、今年はどのヤマユリにも複数の蕾が出来てきていた!まだ小さい蕾を数えてみたら、なんと、40個!!

あんなに大きな花が40個も咲いたら…想像しただけでも、にやけてしまう程嬉しい( ´艸`)

 

この辺りはヤマユリがたくさん自生していて、満開になると、家の中にまで、良い香りが入ってくる。今年は散歩せずとも、家のヤマユリだけで充分!

 

梅雨真っ只中、雨降る那須高原は肌寒いくらいだけど、花々を見れば、夏が近づいていることを感じられる。

天気が良くなったら、また花たちを描きたいな。

 

 

 

我が家の魚達

今日は、晴れていましたが、予報通り天気は下り坂。少しずつ雷雲が近づいている様子。

 

今日は、水槽を少し掃除した🐳

120㎝水槽には只今4匹暮らしていて、まずは1番大きい、クリームがかった銀色に輝く鱗の鯉、ミルキー。(♂か♀かわからない😅)

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次に、カワムツムッチー♀。(ネーミングセンスゼロ😨)

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2匹は仲良し💕

もともと、我が家にはカワムツが3匹いた。♂1匹と♀2匹。近くの小川から、小さな小さなおちびカワムツの頃に捕ってきて、育て、今ぐらい大きくなっていた。♀が1匹病気で亡くなり、長く寄り添った♂も亡くなった。

すると1匹になったムッチーは、石の陰に隠れてあまり泳ぎ回らなくなった。広い水槽は何もいないかのようにガランとしていた。食欲も落ち、少し痩せてしまった。

魚にも感情があるようだ。寂しく心細い様子のムッチーの為に、鯉は攻撃性も少ないし、大きくなっても威張ったりしないだろうと思い、ムッチーより少し小柄なミルキーを買ってきた。(まあ、すぐに大きさは追い越されてしまったけど😊)

2匹はすぐに仲良くなり、ムッチーも元気になって、優しく寄り添うように泳いだ。今では体格も程よくふっくらとして健康体😊

 

そして昨年の夏頃に息子と捕ったおちびカワムツが2匹育っている。


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f:id:SAKURAnoTUBOMI:20190620161853j:image(ムッチーの奥にいるのわかるかな?)

大人達と比べても、まだかなり小さい。これでも最初の3倍くらいにはなった。食べられてしまうのではと心配なほどだが、もちろんはじめは、水槽の隅っこを厳重に大きい2匹が入れないエリアを作った。ミルキーが破壊してしまうのだけど、何度も手直しして保護していた。

たくさんの竹の枝を入れていたら、何か母性本能がうずいたのか、ムッチーが産卵してしまったりもした。小さな粒がたくさんくっついてて驚いた😆でも♂はいないし、無精卵なので産まれることはない。

カワムツは口に入るものなら食べると思うんだが、ムッチーは不思議なことにチビ達が前をウロウロしても無反応。それからずっと見ていても、やはり無反応。ムッチーは、母性の強い優しい子なのかもしれない。(もちろん、お腹空きすぎたら食べると思うけど。エサがもらえるから良いのかな?)流木を組んで隠れられるエリアもちゃんと作ってあるから大丈夫だと思う。

チビ2匹の名前は考え中。見分けはつく。なぜなら、片方の子は目が少し奇形なのかもしれない。普通はパッチリ真っ黒な瞳が大きく見えるが、この子は黒目が小さい…白内障のように白くなってるのかもしれない。とにかく目がパッチリ黒くない。でも元気だし、エサはちゃんと見えてるのか迷いがない。

 

見ていると魚の感情が見えてくる…気がする。ミルキーは特に人懐っこく、呼ぶと来る。飼い主って親バカになっちゃうよね~😅

でも本当に、「おいで」っやると来て「バック」って合図するとバックする。私の時しかやらないんだけど、エサをくれる人をわかってるからかな。犬がおやつ欲しさに芸をするような感じ?

 

不思議だけど、心が通ってる気がして幸せになる😊💕

庭に造った池にはメダカたちがいて、どんどんビッグファミリーになってきた!みんな可愛くて仕方ない。

今日は、そんな魚の魅力について書いてみた。

虫さんの話

昨夜の土砂降りが嘘のような快晴☀

 

木のたくさん生えた森のような庭で、身を低くして花をスケッチしていると、描いてる花に虫が飛んできたり、足元を通り過ぎていく虫やトカゲがいたり、大きな音を立ててハチが通りすぎていったり、生き物たちの生活が見えてくる。

写真はないけど、小さな5㎜程のハムシが私の描いている花の隣の葉で、花を見上げるようにして佇んでた。ふっとそよ風が止むと、かすかにギーギー高い声が聞こえてくる。近づいてみると、やっぱりこのハムシ君だ😊そよ風がそよぐだけでかき消されてしまうほどの小さな声。歌を歌ってるのかな。

そんな瞬間を見ると、心が和む。少しの時間だけど、描いている間は普段とは全く違う世界が広がる。そんな感覚の中では、蚊に刺されようが、いつもはビビる大きなハチがブンブン言って通りすぎようが、小さな毛虫ちゃん(無毒)がスケッチブックに上って来ようが、不思議と気にならない。とても優しい時間。

ジッと観察してると、小さな体で一生懸命に動き回る虫たちが可愛く思えるし、感心しちゃう。なかなか変わってるねと言われるけど、そんな時間が昔から好き。

 

先日、道路に傷ついた小さな蝶がいて、ちょっと見たことなかったので写真を撮った。


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急いで撮ったのでちょっと見えにくいけど、羽根のお尻の方が少し変わった形になってる。その上が少しちぎれてしまっていたのだけど、名前がわからなかった。

調べた結果、「ウラナミアカシジミ」というシジミチョウらしいことがわかった。雑木林にいるそうで、どこにでもいるのかと思いきや、あちらこちらの都道府県で絶滅危惧種にもなっているという。この辺りは自然も多いし、大丈夫なのかな。でも年々気温も上がるし、環境の変化がどう影響するのかも心配。

 

色々考えちゃうね~。

 

 

 

尊敬する人3

前回「尊敬する人2」の続き。

 

(ちょっと話が長くなってしまった……😅)

 

不登校生活の間、支えてくれたのは先生や親、兄弟、近所の方だけではない。クラスの子達やお母さん達も理解を示し、ずっと支えてくれていた。変な目で見ることもなく、ただ会えたことを心から喜んでくれる息子のクラスメート達。学校で1番仲良しのクラスだった。

こんな環境でいじめもないのに、どうして学校に行けないんだ、そう主人は言う。それは世間の人も感じるだろうね。これが「一般常識」的な考えなのだろう。私もこの不登校生活を始める前は、そんな感覚だった。

でもね、それは違う。そんな単純なことじゃない。ちゃんと向き合えばわかる!息子は長年ずーっと我慢してきた。私達親が知らずにそうさせていた。

 

主人が出勤すると二人でゲームしてた。息子がハマったのはMin〇craft。私は見てるだけだったが、それでは会話がなくなりそうだったから、「教えて」と言って息子から教わった。

ゲーム依存症になるんじゃないかって心配されると思うけど、それは違うと思う。無気力にやるゲームはダメだけど、目を輝かせて何かを達成しようとしてる場合は大丈夫。(個人的な考え😅)

だから、私は一人でゲームをさせる気はなかった。常にコミュニケーションの1つとしてゲームをやることを許した。1時間までとかは決めずに、時々目を休める為にやめるだけで、やりたいと言えば一緒にやった。批判する人もいるだろうね。でも、私は信じてた。息子が唯一やりたいとハッキリとした意見を持って始めたMin〇craftは、人をダメにする物ではなく、私と息子をつなぐ大切なものになると。

パソコンを使うことに慣れ、指使いも速くなった。ゲームも上手くなると、ちょっとドキドキしながらマルチプレイもやってみた。その中で、オンラインでつながった外国の人がチャットで「hello:)」と話し掛けてくる。息子も知ってる英単語を駆使して返事をする。相手も英語がわからないのだとわかると、わかりやすく簡単な文で教えてくれたりする。息子の意外なコミュニケーション能力に驚かされた。知らぬ人とオンラインで知り合うのは抵抗があったが、息子は割り切ることができているようなので少し安心した。ネットの恐さもちゃんと話し合った。だから深入りはしなかった。

一緒にやると、会話も増え、次第にゲーム以外にも興味を示しだし、出来ることややりたいことが増えていった。

 

5年生の冬。時々、授業やイベントに参加できるようになっていた息子は、突然また行けなくなった。残りの小学校生活を1年くらいはやってみないと中学校に行けないのではないか、というプレッシャーを主人が与えたことが原因と考えられる。また「ダメな自分」と自身を責めてるようだった。

無理には行かせないが、毎日の様子を見ていると、決して楽しく過ごせていないのがわかる。好き勝手に遊んで過ごしていると周囲には見えるかもしれないが、決して息子は楽しんでなかった。行きたがらない息子を見ていると、私も先々の不安を悩まずにはいられなかった。そう不安がる私を見て、息子は余計に不安になってしまったかもしれない。親子共々、そうやって進退を繰り返しながら模索していた。

当時の担任の若い先生はとても優しく、息子を理解し気長に待ってくれる、お兄ちゃん的存在だった。サッカー少年の先生は、サッカーに興味を持った息子と、よく遊んでくれた。

春休み前、「来年度、僕が担任になれなかったとしても、相談にのりますから。サッカーも一緒にやりますから。」と約束してくれた。

春休み中、不安そうな息子を見かねて、私は決心する。それは、6年生のスタートを皆と同時にしようということ。息子は不安そうだったが、約束した。私が全てに付き合うことを。教室に居られないときは別室でもいい。帰りたくなったら帰ろう。とにかく朝だけでも、同じ時間に登校してみようと。

始業式、息子と私は、下校まで全てに参加した。担任は、5年の時と同じ先生。発表と同時に喜ぶ息子を見て、私も嬉しかった。

はじめの1週間は、やはり嫌だと泣いたりした。でも私の中で、もう少し押しても大丈夫かなと感じていたから、「冬の間、行けなくなった時、家にいて本当に楽しかった?あの生活がいいの?」と聞くと、黙って考える。そして、静かに首を横に振る。

友達といたい……。

もう親からの愛は満たされてきたのか、友達を求めるようになってきた。これなら心配ないと確信して、一緒に頑張ろうと励まし、少しずつ通えるようになった。

まずは朝の登校だけ出来たら合格!

クラスの子達は羨ましがったりもせず、朝しかいない息子にも優しかった。それが良かった。本当に恵まれていた。途中で帰るときも、「またね」って笑顔でハイタッチしてくれて、本当に純粋で不思議な子達だ。

こうして、先生や友達からも認めてもらえていく内に、息子も頑張るようになり、4年生と5年生の2年間のブランクを埋めるようにして、過去の教科書などで一緒に勉強をした。全部は出来ないから、算数と国語の漢字をメインにコツコツとやっていった。

イベントも一緒に参加した。マラソン大会も一緒に走った。授業も全て一緒に出た。私もクラスの皆と仲良くなり、先生方ともよく話すようになり、すっかり友達や副担任のようだった。

下級生が、「どうしてお母さんがいつも一緒なの?」と聞いてきた。隣にいる息子はどんな顔をするかと心配したが、全然平気な顔。私も、その子にわかるように正直に答えた。人目を気にしないで堂々としていると、誰もからかったりしない。息子はしっかりと自信を持てるようになってきた。

卒業まで半年、その頃には授業で手を挙げるまでになり、積極的に参加できるようになった。別室も減り、午後までいられるようになった。遅れている算数は皆と同じ教室で受けることを自ら希望し、過去のドリル問題をやりながら覚えていったし、少しずつ、私の方を振り返らなくなり、友達とふざけ合って楽しく過ごせるようになった。

卒業まで1ヶ月程となった頃、大きな賭けに出ることに。それは、朝の登校は一緒に行くが、私が一旦帰るということ。途中で帰りたくなったりしたら呼んでも良いよ、と不安にさせないようにした。

息子は、私が思っているよりも成長していた。呼ばれたのははじめの数回だけ。その内に普通に下校の時間を迎えた。その時は泣きそうな気持ちで、早く息子に会いたくて急ぎ足で向かった。疲れ切っているかと思ったら、満面の笑みで待つ息子がいた。不登校になる前はこんな笑顔で待っていなかった。凄いことだ。

卒業式では、人数が少ない学校なので、名前を呼ばれると一人ずつ夢を大声で発表するのだが、息子も立派に言えた。人前を恐れていたのに、しっかりと前を向いて言ったその姿は、力強くて素晴らしかった。

 

中学入学と共に、不安がまた襲ってきていたが、不安定ながらも少しずつ克服し、元気に通えるようになってきた。どうしてもダメな時は無理はさせない。甘やかしてるように見えるけど、私は、心が満たされれば息子は何でもできることを知っているから、口うるさく言ったりしない。押すべき時は押すが、引いて良い時は引く。たとえば、係の仕事が緊張するから嫌だというのは、やりなさいと説得する。場数を踏まなきゃいつまでも不安になるようなものなら、説得する。だから最初の一ヶ月は行きたくないと言っても、「行かなかったら不安が増すかもしれないよ」と言う。

ここで気をつけることは、メリット、デメリットを話した上で、最終的には本人の判断に任せること。親の意見を押しつけては意味がない。

こうなるかもしれないけど、ああなるかもしれないね、どうしたい?決めたら、それが正解だ。

そんな感じで、本人が出した答えに反対はしない覚悟をしておくのが大切。ここで否定してしまったら、信頼関係が壊れる。

泣きながらも「行く」と決めた息子は、満面の笑顔で帰ってきた。泣き顔を見送った私は一日気になって家事も手につかなかったが、あの笑顔を見たら一気に幸せになる。「キツく言ってごめんね。」と言うと「ありがとう」って笑った。

初めての中間テスト。結果は驚くべきものだった。英語が高得点で、クラス1位だったという。

もう不登校だったなんてわからないくらい、皆と同じように出来てるのね。

この達成感を忘れずに。息子、あなたは何でもできる!恐がる必要はない。堂々としなさい。この不登校を抜け出して前に進んだのは、あなたの力だよ。周りは手伝うことはできるけど、最終的に自分でしか前には進めない。それをやってのけたのは自分だと知って欲しい。

息子と向き合ったことで、悩み多かった私も広い視野で物事を見られるようになった。本当に強くなった。感謝の気持ちをいっぱい持てるようになった。主人ともたくさんもめながらの不登校生活だったけど、主人も変わっていった。家族全体がお互いを考えるようになり、今までにないほど仲が良くなった。全てを良い方向に導いてくれたのは、息子だと思う。

あの時、SOSを出してくれてありがとう。大きな苦しみを3年かけて、よく乗り越えてくれた。

カウンセラーの先生にも驚かれるほど、早く復帰できた。世の中には不登校で苦しむ人もたくさんいる。原因が様々で、必ずしも私と同じようにやればいいわけじゃない。いじめなどの心の傷は、また別のケアが必要かもしれない。でも、1つ思うのは、1番身近な存在である親が信じることが1番大切ではないか。1番の味方でいてあげることで、逃げ道を作ってあげたらどうだろう。

 

きっと親も子供から学ぶことがたくさんあるはず。偉そうにしてる大人達、必ずしも親が正しいとは限らない。子供も1人の人間として、お付き合いしてみたらどうだろう。意外と子供の方が良いこと言ってるかもしれない。

産まれながらに悪い人はいません。犯罪をしてしまう人も、可哀想な過去を背負っているのかも。

息子との不登校生活は今となっては幸せな時間。育て直し、幼いときにしてあげられなかったことをたくさんしてあげられた!もう一度チャンスをくれてありがとう。

 

困難を乗り越えた息子を心から誇りに思い、尊敬している。

 

主人、両親、親族、近所の方々、クラスのみんなとそのお母さん達、先生方、皆さんのお陰です。感謝しかありません。このことは一生忘れないでしょう。

 

 

 

 

尊敬する人2

前回「尊敬する人」の続き。

 

息子が小学3年生の時、私は学校ボランティアで保健室登校の子達の相手を頼まれた。

保健室登校というものを当時私は知らなかった。色々な事情があって症状も様々と聞き、きっと悩み多き子達が暗く過ごしているのかと思った。でも、保健室登校の子達は初対面の私に微笑みかけ、とても人懐っこかった。思っていたより元気で楽しそうで、逆に少し戸惑った。

何回か通っていると、少しずつわかってくる。あの子達の置かれた状況。皆、事情は違えど、自分のことを認められたいという思いは同じだった。ただそれだけだった。私は絵を描くことが好きだから、皆と描いたり、ふざけた話ばかりしたり、そんな毎日だったが、まだ私は戸惑っていた。それは、私の中にまだ、「一般常識」が埋め込まれていたから。誰もが思ってしまうんじゃないかな?「皆が勉強してるのに遊んでていいの?」って。

戸惑う私に保健の先生が、「そのまんまでいいんです」と繰り返した。私ははじめ意味がわからなかった。でも少しずつ「一般常識」に囚われている自分に気付き、目の前にいる子達を認めることに集中した。すると、不思議とその子達の良いところがたくさん見えてきて、問題視されてきた攻撃的に感情を出す子の真意もハッキリと見えてきた。そうして認めていく内に、皆は心を開き、相談してくれるようになった。

最初の人懐っこさも、認められたいという思いから出ているだけで、心を許していたわけではなかったと、後になってわかった。

最終的には母親に認められることが一番なのだけど、母親が自覚しない限り、そこは治せない。とりあえず、他人であっても、認めてくれる存在があれば少しは救われるのでは…。

 

おんぶに抱っこ、その子達の要求をできる限り叶えようと全力で向き合っていた、そんな中、迎えに行った息子の様子が少しずつ変わっていくのを感じた。

門を出るまでは友達にニコニコしていたのに、門を出ると私にイライラした態度をとるようになった。どうしたの?と聞いてもわからないと答える。ただひたすらイライラしてる。はじめはそれを見て私もイライラしてしまった。それで言い合いになったりして、しばらくしてから謝ったりを繰り返した。

私「言い過ぎてごめんね」

息子「自分もごめんなさい。どうしてこうなるのかわからない。」

そんなことを繰り返してる内に、ようやく気づいた。息子も保健室登校の子達と同じではないか。それならば、やることは1つ!

 

認めること

 

でも、自分の息子となると意外と難しいことに気付く。なぜなら、他人以上に将来を心配してしまうから。ワガママになってしまうのではないか、何も自力で出来ない人になるのではないか、引きこもってしまうのではないか、誰もが心配するところだろう。だから、つい、厳しく言ってしまう。

 

はじめは引きこもるのを心配して何とか学校には関わらせ続けようと必死だった。一緒に教室にいることを許可してもらい付き添った。でも全く改善はなく、授業中ずーっと無表情で貧乏ゆすりしてる。その内、朝の登校前の時間が苦痛の時間になってきた。説得するのも疲れるほどに。学校の友達に問題はない。仲も良く、何もないと言う。先生も好きだと言うし……ただ、家にいるママが心配だと言うのだ。

私は、幼少期の息子のことを思い出していた。あんなに優しくて手のかからない子だった…………あ!そういうことか。ようやく気づいた。

 

ずっと私のことばかり気に掛けてくれていた息子。自分のことよりも母親を心配してきたのだ。本当は自分を見つめていて欲しかったはず。私が自分のことでいっぱいいっぱいになっていた時、この子はずっと私のことだけを見つめていてくれた、そう気づいた途端に、申し訳ない気持ちと絶対に助けなくちゃと思った。

ではどうしたらいいか。

私は自分の中にある「一般常識」をまず捨てていくことにした。最初に捨てるもの、それは「学校に行かなくてはならない」だ。

先生に相談に行き、毎朝の登校するかしないかの地獄のような時間をまず無くし、無期限の休みを頂きたいと話した。もちろん先生はその後2度と学校に来られなくなるのではと不安がった。わたしもそれは百も承知。でも、どうしてもやらねばと思っていたので、先生にはその苦労を覚悟していますと伝えた。私の強い決心に先生も折れて、「何でも協力します」と仰った。

 

主人はどうだったかと言うと、はじめは本当に反対してた。全く理解できないといった様子で、甘やかしだ!と私を責めていた。

 

こうして息子との不登校生活が始まった。

休みともなれば心に余裕が出て、少しずつ話し合っていけるだろうと思っていたら、とんでもない、不登校にした途端に息子は赤ん坊になった。

可愛い可愛い赤ん坊ではない。朝から晩まで、家の中であっても私の姿がチラリとも見えなくなると、ワァーッと泣くのだ。慌てて駆け寄って「どうした?」と言っても何も言わず、ただ泣き叫ぶ。抱っこしたりおんぶしたりしながらの家事。

息子は「どっちがいい?」とか「どうしたい?」と意見を聞かれると怯えたように泣き出すようになった。たとえそれがお菓子を選ぶだけであっても。泣く理由は、「わからない」だった。自分の考えがわからないことにパニックを起こすのだ。だから、私は泣く息子を抱きしめて、「わからないままでいいよ、わかったら教えてね」と繰り返した。息子には答えを急がせない、何か言ってくるときは、何かをしている最中であっても手を止め聞くようにした。

理解できない主人は私を責めたり、休みの日は一人で遊びに行って避難していた。一緒にいると不安が増してしまうから苦しかったのだろう。

私だって不安がなかったわけではない。不安に押しつぶされそうになることは多々あった。たくさん泣いた。気が狂いそうだった。でも、今まで言えなかった最高のワガママを息子が勇気を出して訴えてくれたと思うと、そのSOSに必死に応えてあげたいと思った。

 

言葉もなく、ただ泣き叫ぶ日々が数ヶ月は続いた。その中でも少しずつ変化があって、本当に少しずつだが、自分の気持ちを伝えてくるようになった。半年経つ頃には、泣き叫ぶことはなく、良いとか悪いとか簡単な話し合いができるようになった。

 

私が心掛けたことがいくつかある。

1、自分より何よりも息子優先に考える。

2、否定をしない。どうしても無理なことは、丁寧に説明し、息子が納得いくまで話し合う。

3、息子が失敗したり、出来ないことを決して責めてはならない。出来なかったことを「それでも良いんだよ」「やろうとしたことが素晴らしい」と認めること。

4、学校とはつながり続ける。いつでも戻れるように、先生とは連絡を取り合った。

 

そして何よりも心掛けたことは、私自身が人目を気にしないことだ。不登校問題や引きこもり問題で、皆が犯しているミスは、親が引きこもった我が子を無意識に「恥ずかしい」と思っていることだと思う。近所の人に隠していたりする行為が、我が子を認めていないという証。

私は保健室登校の子達と向き合った時に、その子達が持つ劣等感はそこから来てると感じた。だから、息子にそんな思いを感じさせたくなかった。「自分なんていなくなれば……」と泣いた息子を抱きしめて泣いた。事実、息子が産まれてきてくれたから、私は鬱病から脱し命を失わずに助かったのだから。そんなこと思って欲しくない。

そこで私は、よく息子を連れてお散歩に出た。平日の真っ昼間。皆が学校に行っている時間でも気にせずに出かけた。主人が平日休みの時は、水族館へ行ったりもした。はじめは抵抗のあった主人も少しずつ協力してくれた。(たまに嫌味言ってくるけど😅)息子には、日頃から「決して恥ずかしくない。堂々としなさい」と言い続けた。近所の人やクラスのお母さん達にも、堂々と話した。

そうしていく内に、徐々に学校に対する緊張がほぐれて、放課後先生に会いに行ったり、イベントだけ参加したり、少しずつ積極的にできてきた。

無理は決してさせない。1つできたからと言って、次もできるわけではないから、変な期待は持たず、ただひたすらにダメな方へ転がってもいいように覚悟をする。それと同時に、信じる気持ちを持ち続ける。これが大切。「どうせダメになる」ではなくて、「できなくてもいい、でも、いつかきっとできるよ」

 

長くなったので一旦ここまでとし、また次へ続く。

 

尊敬する人

今、私は一人息子を心から尊敬している。

 

事の始まりは…遡ればキリがないのだけれど、ブログの最初にも書いたが、結婚してから間もなくして、私は鬱病になった。

もともとすぐに人目を気にして落ち込む性格だった私は、結婚したことで主人からどう思われるか、ちゃんと家事をやらなくちゃ…と気負いし過ぎてしまった。線路沿いに住んでいた私は、踏切まで招かれるようにフラフラと行っては、ボーッと過ぎゆく電車を眺めていた。つま先のすぐ先はもう崖っぷちという感覚。目の前には真っ暗な闇が見えて、当時テレビでやっていた「笑っていいとも」の笑い声さえもかき消されていた。笑う人を見ても、その感情が理解ず、今までできていた笑顔をどう作って良いのかさえわからなくなった。自殺は良くないとわかっていたのに、人は絶望するとそんなことすらわからなくなってしまう。しまいには涙すら出ない無感情の私がいた。当時を振り返り、母は、手伝いに来たときに部屋の隅でジッと睨む娘を見て、知っている娘の顔ではなかった、という。

主人も暴れたり徘徊したりする私を責めなかった。徘徊すれば探し回り、暴れると布団を引っ張り出してきて、私を海苔巻きのようにクルクルと丸めた。手足が動かなくなると少し鎮まる。優しく「本当のお前を知ってるから大丈夫」って言ってくれたのを今でも覚えている。朝から暴れてひどい時には、仕事場であるホテルまでパジャマ姿の私を連れて行き、駐車場の車の中で、朝から晩まで主人の仕事が終わるのを待っていたこともあった。無気力すぎて一日中そこにいても苦ではなく、逆に主人のそばにいるという安心感が心地良かった。主人は私を見捨てなかった。当時は何をしてくれたかなんて覚えていなかったが、鬱病を脱した今は、あの頃の主人の苦労や優しさが次々と思い出されてきた。心から感謝してる。ありがとう、パパ。

 

そんな大変な中、お腹にいたのが息子。赤ちゃんができたということは素直に嬉しかった。でも自信の持てない私は、鬱病になったことで益々自信を失っていたから、こんな私が赤ちゃんを育てられるのか、徐々に不安が増していった。お腹が大きくなると、ふとした時に優しく温かい気持ちになれたが、不安は拭えなかった。相変わらず踏切に招かれてしまう。でも「一人じゃない」と赤ちゃんのことが頭をよぎり立ち止まる。そんなことを繰り返した。「あなたがいるから死ねない」ってお腹に八つ当たりしてしまうこともあった。その度に、私はなんてひどい親だと自分を責め、益々鬱病が加速し負の連鎖が起きた。

お腹の中で赤ちゃんが動いたり蹴ったりし始めると、赤ちゃんがいる実感が少しずつ希望となってきた。エコーで赤ちゃんの姿を見て、気がつけばにっこりと笑えるようになってきた。浮き沈みはあったが、赤ちゃんがいつも止めてくれた。

 

細く長く産まれた息子。他の赤ちゃんよりも、か弱く泣く姿が愛おしかった。

 

鬱病の私は、症状は軽くなったものの、浮き沈みの激しさから、子育ては本当に下手だったと思う。自分のことで精一杯の時は優しくできなかった。暴力はなかったが、精神的には息子には良いとは言えないと思う。子供の前で泣くな、ケンカするな、そんなことを心掛ける余裕は全くなかった。

息子はひたすらに優しかった。幼稚園の時、私が嫌な人に会ったことでいろいろあって泣いていたら、息子は肩にポンと手を乗せ、「ママ、おれだけをみてな」と真っ直ぐな目で言った。どこでそんな台詞を覚えたのやら…。でもキュンとしちゃった。

こんな男前な息子のエピソードはたくさんあって、話すと皆をキュンとさせてきた。幼稚園の若くて美人な先生方もすっかりメロメロに。

でも今思えば、ただ喜んでいて良い話ではなかった。はじめのブログでも書いたが、桜の蕾のエピソードが何故可愛い話だけで終わらないかというのは、この環境にいたからだ。子供はワガママ言えて、ぐずぐず文句言えて正解だと、今では思う。あんなに「良い子」はおかしいことだと、何故気付かなかったのか。

それをハッキリと実感したのは、小学生の時

長くなったので、次の日記に書こう。

 

父がくれた宝物

今週のお題「お父さん」

私の父は若い頃から絵を描くのが好きだった。私はずっと父が絵を描いてる姿を見てきた。自然を愛し、山々や川、花などを油絵にしていた。時には私達を描いたり、とにかく現在も、いつでもどこでもスケッチしてる父。

幼い頃、休みの日には、渓流に連れて行ってくれて、いつものように父は絵を描いてる。私達子供は、近くで魚を見つけたりして自然の中で遊んでた。それを母は、今思えば事故が起きなくて良かったねって、父のずさんさを笑ったりしてる。呆れてしまうほど、絵が好きな父。

父は毎年秋には個展を開く。幼い時から父の絵を見てきたから、兄妹で私だけは絵が好きになり、父と一度だけ二人展を開いた。またやりたいけれど、子育てに追われなかなか描けなかった。息子が中学生になり、手が離れ安心したら、また急に描きたい衝動が湧き起こったと話すと、父は大喜びしてくれた。

私は鉛筆の精密画が好きで、森のような庭に這いつくばって花々やそこに来た虫を描く。動物や人物、自由に発想して描くことも好きで、父とは画風もジャンルも違うけど、良き絵描き仲間。人生の色々な場面で、絵が私を救ってくれてた。絵を描くスキルは父がくれた大切な宝物。自然を愛し、自然に感謝する気持ちを素直に持てるのも、父がそうしてきたからだろう。

また父と展覧会を開きたい。そして父がくれた絵を描くこと、この感性の全てを大切にしていきたい。

お父さん、本当にありがとう。