SAKURAnoTUBOMIの日記

鬱病を経て、息子との不登校生活も経て、日々感じ、学び、感謝。 

尊敬する人2

前回「尊敬する人」の続き。

 

息子が小学3年生の時、私は学校ボランティアで保健室登校の子達の相手を頼まれた。

保健室登校というものを当時私は知らなかった。色々な事情があって症状も様々と聞き、きっと悩み多き子達が暗く過ごしているのかと思った。でも、保健室登校の子達は初対面の私に微笑みかけ、とても人懐っこかった。思っていたより元気で楽しそうで、逆に少し戸惑った。

何回か通っていると、少しずつわかってくる。あの子達の置かれた状況。皆、事情は違えど、自分のことを認められたいという思いは同じだった。ただそれだけだった。私は絵を描くことが好きだから、皆と描いたり、ふざけた話ばかりしたり、そんな毎日だったが、まだ私は戸惑っていた。それは、私の中にまだ、「一般常識」が埋め込まれていたから。誰もが思ってしまうんじゃないかな?「皆が勉強してるのに遊んでていいの?」って。

戸惑う私に保健の先生が、「そのまんまでいいんです」と繰り返した。私ははじめ意味がわからなかった。でも少しずつ「一般常識」に囚われている自分に気付き、目の前にいる子達を認めることに集中した。すると、不思議とその子達の良いところがたくさん見えてきて、問題視されてきた攻撃的に感情を出す子の真意もハッキリと見えてきた。そうして認めていく内に、皆は心を開き、相談してくれるようになった。

最初の人懐っこさも、認められたいという思いから出ているだけで、心を許していたわけではなかったと、後になってわかった。

最終的には母親に認められることが一番なのだけど、母親が自覚しない限り、そこは治せない。とりあえず、他人であっても、認めてくれる存在があれば少しは救われるのでは…。

 

おんぶに抱っこ、その子達の要求をできる限り叶えようと全力で向き合っていた、そんな中、迎えに行った息子の様子が少しずつ変わっていくのを感じた。

門を出るまでは友達にニコニコしていたのに、門を出ると私にイライラした態度をとるようになった。どうしたの?と聞いてもわからないと答える。ただひたすらイライラしてる。はじめはそれを見て私もイライラしてしまった。それで言い合いになったりして、しばらくしてから謝ったりを繰り返した。

私「言い過ぎてごめんね」

息子「自分もごめんなさい。どうしてこうなるのかわからない。」

そんなことを繰り返してる内に、ようやく気づいた。息子も保健室登校の子達と同じではないか。それならば、やることは1つ!

 

認めること

 

でも、自分の息子となると意外と難しいことに気付く。なぜなら、他人以上に将来を心配してしまうから。ワガママになってしまうのではないか、何も自力で出来ない人になるのではないか、引きこもってしまうのではないか、誰もが心配するところだろう。だから、つい、厳しく言ってしまう。

 

はじめは引きこもるのを心配して何とか学校には関わらせ続けようと必死だった。一緒に教室にいることを許可してもらい付き添った。でも全く改善はなく、授業中ずーっと無表情で貧乏ゆすりしてる。その内、朝の登校前の時間が苦痛の時間になってきた。説得するのも疲れるほどに。学校の友達に問題はない。仲も良く、何もないと言う。先生も好きだと言うし……ただ、家にいるママが心配だと言うのだ。

私は、幼少期の息子のことを思い出していた。あんなに優しくて手のかからない子だった…………あ!そういうことか。ようやく気づいた。

 

ずっと私のことばかり気に掛けてくれていた息子。自分のことよりも母親を心配してきたのだ。本当は自分を見つめていて欲しかったはず。私が自分のことでいっぱいいっぱいになっていた時、この子はずっと私のことだけを見つめていてくれた、そう気づいた途端に、申し訳ない気持ちと絶対に助けなくちゃと思った。

ではどうしたらいいか。

私は自分の中にある「一般常識」をまず捨てていくことにした。最初に捨てるもの、それは「学校に行かなくてはならない」だ。

先生に相談に行き、毎朝の登校するかしないかの地獄のような時間をまず無くし、無期限の休みを頂きたいと話した。もちろん先生はその後2度と学校に来られなくなるのではと不安がった。わたしもそれは百も承知。でも、どうしてもやらねばと思っていたので、先生にはその苦労を覚悟していますと伝えた。私の強い決心に先生も折れて、「何でも協力します」と仰った。

 

主人はどうだったかと言うと、はじめは本当に反対してた。全く理解できないといった様子で、甘やかしだ!と私を責めていた。

 

こうして息子との不登校生活が始まった。

休みともなれば心に余裕が出て、少しずつ話し合っていけるだろうと思っていたら、とんでもない、不登校にした途端に息子は赤ん坊になった。

可愛い可愛い赤ん坊ではない。朝から晩まで、家の中であっても私の姿がチラリとも見えなくなると、ワァーッと泣くのだ。慌てて駆け寄って「どうした?」と言っても何も言わず、ただ泣き叫ぶ。抱っこしたりおんぶしたりしながらの家事。

息子は「どっちがいい?」とか「どうしたい?」と意見を聞かれると怯えたように泣き出すようになった。たとえそれがお菓子を選ぶだけであっても。泣く理由は、「わからない」だった。自分の考えがわからないことにパニックを起こすのだ。だから、私は泣く息子を抱きしめて、「わからないままでいいよ、わかったら教えてね」と繰り返した。息子には答えを急がせない、何か言ってくるときは、何かをしている最中であっても手を止め聞くようにした。

理解できない主人は私を責めたり、休みの日は一人で遊びに行って避難していた。一緒にいると不安が増してしまうから苦しかったのだろう。

私だって不安がなかったわけではない。不安に押しつぶされそうになることは多々あった。たくさん泣いた。気が狂いそうだった。でも、今まで言えなかった最高のワガママを息子が勇気を出して訴えてくれたと思うと、そのSOSに必死に応えてあげたいと思った。

 

言葉もなく、ただ泣き叫ぶ日々が数ヶ月は続いた。その中でも少しずつ変化があって、本当に少しずつだが、自分の気持ちを伝えてくるようになった。半年経つ頃には、泣き叫ぶことはなく、良いとか悪いとか簡単な話し合いができるようになった。

 

私が心掛けたことがいくつかある。

1、自分より何よりも息子優先に考える。

2、否定をしない。どうしても無理なことは、丁寧に説明し、息子が納得いくまで話し合う。

3、息子が失敗したり、出来ないことを決して責めてはならない。出来なかったことを「それでも良いんだよ」「やろうとしたことが素晴らしい」と認めること。

4、学校とはつながり続ける。いつでも戻れるように、先生とは連絡を取り合った。

 

そして何よりも心掛けたことは、私自身が人目を気にしないことだ。不登校問題や引きこもり問題で、皆が犯しているミスは、親が引きこもった我が子を無意識に「恥ずかしい」と思っていることだと思う。近所の人に隠していたりする行為が、我が子を認めていないという証。

私は保健室登校の子達と向き合った時に、その子達が持つ劣等感はそこから来てると感じた。だから、息子にそんな思いを感じさせたくなかった。「自分なんていなくなれば……」と泣いた息子を抱きしめて泣いた。事実、息子が産まれてきてくれたから、私は鬱病から脱し命を失わずに助かったのだから。そんなこと思って欲しくない。

そこで私は、よく息子を連れてお散歩に出た。平日の真っ昼間。皆が学校に行っている時間でも気にせずに出かけた。主人が平日休みの時は、水族館へ行ったりもした。はじめは抵抗のあった主人も少しずつ協力してくれた。(たまに嫌味言ってくるけど😅)息子には、日頃から「決して恥ずかしくない。堂々としなさい」と言い続けた。近所の人やクラスのお母さん達にも、堂々と話した。

そうしていく内に、徐々に学校に対する緊張がほぐれて、放課後先生に会いに行ったり、イベントだけ参加したり、少しずつ積極的にできてきた。

無理は決してさせない。1つできたからと言って、次もできるわけではないから、変な期待は持たず、ただひたすらにダメな方へ転がってもいいように覚悟をする。それと同時に、信じる気持ちを持ち続ける。これが大切。「どうせダメになる」ではなくて、「できなくてもいい、でも、いつかきっとできるよ」

 

長くなったので一旦ここまでとし、また次へ続く。