息子が中学に入学して以来、初めて2週連続で休まず登校した(´▽`)🎵
+土曜の部活も(^-^)
すごいことだ!
この2週間、1日も「行きたくない」とごねたりせず、笑顔で登校した!
もしかしたら、主人が今日まで11連休で送り迎えしてもらえる安心感があったからかもしれない。なんてったって山に向かってずっと続く坂道を自転車で30分近く上らなくてはならないのだから、車で送り迎えしてもらえる方が気楽だよね~(^-^;)
学校に行くのが億劫になる理由の1つとしてそれがある。
もともとガリガリだった息子は、不登校でぷくぷくと肉付きよくなっていき、体力にも自信がなくなっていた。それが自転車で登校してる内に体は細く引き締まり、体力も脚力もついた。
今は昔のように不健康にガリガリというわけでもなく、中学生らしい細くガッチリした感じ。
父親に似て背も高く、足が長い。あぁ、羨ましい~(>_<)母はこんなにちっちゃいのに。
いやいやそれよりも、息子の快進撃はどこまで続くのか、私も主人もそっと見守るしかない。
(*・ω・人・ω・*)そっ。
この「出来た!」や「やった」が息子に少しずつ自信を与えてくれるに違いない。どんな些細なことでもいい。「出来た!」「やった」という経験が今の息子には必要なんだ(^-^)
「うちの子を不登校にさせて下さい」と先生に申し出たあの日をしみじみと思い出す。呆気にとられた先生の顔が忘れられないw
息子の心をケアするために「頑張って登校する」という常識を破ることを決意した瞬間、何も恐くなくなった。
気づいてしまったから。いかに自分が世間の常識に振り回されているのかということ。誰が決めたかわからないような基準に合わせることに必死で、幼かった息子の心に寄り添えていなかった。
今でも悩むとき、ふと考える。
これはただの常識ではないのか?ただの常識っていうだけなら、そんなもの破ってしまおう。普通が〇だと言うなら、❌にしてみたらどうかな?
そんな風に見方を変えてみると、常識に反した方が見えてくるものがあったりする。
学校に行くという常識を捨て、自分の都合を考えることを捨て、タイムリミットを捨てた。
ゲームは良くないという概念も覆す。確かにボーッとやるのは良くないと思う。だから、息子の時はコミュニケーションのツールとして、親子でゲームして過ごした(^-^)
子供の方が習得するのが速いから、ゲームのやり方を教わるようにして一緒に楽しんだ。息子はその内にパソコン版でやりたいと言い出し、パソコンにも入れてみた。パソコンは1人でしか出来ないけど、横にいて一緒に話しながら過ごした。
すると今度はオンラインでできる方法を自分で調べてやり始めた。それも隣で見る。知らない人達の中に入ってくのは親としては不安だったけど、そばで見守る。
ボイスでのコミュニケーションではなく、チャットで会話していた。そのほとんどが外国人。
「Hi」と話し掛けられ、息子は「Hi」と返す。
相手は何やら英語で話し掛けてくる。私も辞書を片手に手伝って解読するけど、どうやらゲーム内の何かを教えてくれてるらしい。そこで息子が最初にするのは、
「I'm Japanese.」
日本人だと言えば、英語がそんなに出来ないかもしれないと遠回しに伝わる。それを見て、相手は今度は簡単な単語で打ってくれたり、翻訳ソフトを使って日本語に変換してくれたりと、工夫して会話をしてくれた。
息子もゲーム内で覚えた英語を駆使して、何とか伝えようとする。
パソコンと英語の両方をどんどん好きになり、習得していく息子の成長はすごかった。
後に不登校から、母同伴で登校するようになり、学校でパソコンと英語に関して周りから賞賛され、自信を持てるようになった。
ゲームは良くないというけれど、使い方次第では良くなることを実感。
不登校中だから外出しちゃいけないような雰囲気ってない?
主人がまだ不登校に理解がなかった頃、息子に言った。
「皆は学校で勉強しているんだから、家にいる間は勉強しなさい」
だとか、平日に水族館とかに行こうと提案すると、
「皆が学校に行ってるのに、遊びになんて行けないよ」
という反応(-ω-;)
そういう世間の目を気にする親の元では息子が可哀想だと思ったけど、近所に30代の引きこもりになった息子の存在をひたすらに隠す夫婦がいたし、学校で保健室登校の子達の親も皆同じようだったから、主人の反応は一般的な反応なのかもしれないと思った。
だからこそその常識も破りましょ。逆に不登校の特権と思い、平日に堂々と観光に連れて行った。お店の人や周りのお客さんに「学校がお休みなのかな?」とコソコソ言われても気にせず、息子にも堂々としなさいと言ってきた。
そのためにまずは私自身が堂々としなくては!と思い心掛けたのは、誰にでもオープンに話すこと。近所の人と話すときも、何かの集会に参加した時も、時には道端で会って話し掛けられた時も、「息子が今不登校なんです」と笑顔で話す。
相手に気を遣わせないくらいオープンにしちゃうことで、変な噂も立たないし、皆さん結構助けてくれる(^-^)
不登校中も「うちの子が遊びたがってるんだけど学校の帰りに行ってもいい?」と嬉しい連絡が来ることもあった。
クラスの子達も普通に会えることを喜んでくれるし、からかわれるどころか、逆に何故か人気者になっていた。皆で息子を助けてくれるから、私はその光景をそばで見ていていつも涙が溢れてた。 。+゚(*ノ∀`)
思い出したらキリがないか…。
今回は息子のここまでの道のりを振り返る良い日だった。こうやって一瞬、一秒、一日と向き合っていけば、いつかもっと先まで思い描けるようになる。
不安になったら、自分がダメだと感じたら、あの泣いてばかりだったスタートをまた思い出してみたら、きっと自分の頑張りが見えてくる。
ここまで来たんだから、もっと先に進める、そう思えるようになる。
これは息子に言いつつも、私自身に言い聞かせてることだけど(^-^;)
あの不登校の始まりが、息子にとっても私にとっても、家族にとってもスタートだった。
今だから、やって良かったと思える。
今だから、頑張ったねって言える。
今だから、偉そうにブログに書ける。
あの頃は息子と向き合うので精一杯。正解がわからない恐怖と、置いていかれるような焦り。
誤解されたくないのは、学校に行けて喜んでるけど、常識の枠に戻れたから嬉しいのではなくて、息子が自分で選び、チャレンジしていることが嬉しいということ。
どっちでもいいんだけど、ちょっとそこはこだわりたい。
学校に行くから偉いんじゃなくて、苦痛だったことに立ち向かうことが偉い。学校へ行かなくても、何かと闘っているならそれは素晴らしいこと!学校へ行くことが最終目標ではなくて、もっと先のこと。
どんな困難にぶつかっても、立ち向かえるかどうか。
その第一歩として、息子にとっては大好きな友達のいる学校に向かわなくちゃならなかった。克服しなくちゃならなかった。
だから、誤解なきようお願いしたい(^-^;)
不登校で悩む方がいたら伝えたいのは、「学校へ行くこと」を目標にしない方がいいということ。たまたま学校が目の前にあるだけ。親がそれを願っても子供には愛として伝わらない。
本気で子供を想うなら、子供が1人になっても生きていけるようにするにはどうしたら良いかよく考えること。学校なんて行けなくても道はいくらでもある。
でも息子にも言い続けたのは、違う道は普通よりも険しく苦しいということ。
大事なのは自分の逃げたい気持ちと闘うこと。不登校始まりの「行きたくない」というのは、「逃げ」とは違う。「行きたくない」という意思表示は勇気の要ることで、闘ってる証拠。
今、息子も様々なことに対して「面倒くさい」と言うようになってきた。この「面倒くさい」というのは余裕が出てきた証拠と我が家では言ってる(^-^)これが出てきたら、踏ん張りどこだぞ!と息子に忠告。
実際に息子がズルをしてサボった時、私は怒った!大したことではなかったけど、その逃げ方はダメだと。
やって出来ないのはいい。やるのを忘れてしまうのもまだ仕方ない。でも、ズルするのは違う!
あの不登校中は出来ないことは多かったけど、ズルしたりはしなかった。ゲームしかできない時期もあったけど、(変な言い方だけど)ゲームに対しては本気で真剣に向き合ってた。
ズルをすることを自分に許していたら、大人になってもそういう逃げ方をするようになる。母としては息子にそうなって欲しくない。辛くてもそれだけはダメ!
だからこそ、「面倒くさい」の壁にどう立ち向かうかが大事だと思う。
今こそ踏ん張りどこ(>_<)
まぁ、今回連続登校できたのは、もしかしたらあの説教がきいたのかもしれないなぁ~、なんちゃってヾ(≧∇≦)