SAKURAnoTUBOMIの日記

鬱病を経て、息子との不登校生活も経て、日々感じ、学び、感謝。 

3.11

9年前の今日。

息子の幼稚園は卒園式の日だった。

4歳の息子は左膝を骨折し、ギプスは外れていたけれど、細い足はまだ軽く固定されていた。

あの時はアパートで、リビングの横に和室が繋がっていた。

和室で足を伸ばして座った状態でプラレール遊びをする息子を、リビングから眺めていた。

ガタガタ……はじめは小さく、「ん?地震?」と思った途端にドーンと大きく揺れ出した。

まだ大きくなりそうだと思い、振り返ると、和室で息子が慌てて足を伸ばしたままお尻を擦ってこちらに向かってくる。慌ててそばに駆け寄り、歩けない息子の頭を守る。

今抱きかかえるのは危ない。

大きく大きく揺れ大きな水槽はバッチャンバッチャンと水が溢れ出す。咄嗟に下の方にあるコンセントを抜いた。

また息子に覆い被さり、うずくまる。

立っていられる揺れではなかった。

正しい防災の仕方はどうだったか、あまりの揺れの激しさに頭の中は真っ白。

しばらくの間、恐がって泣き叫ぶ息子を抱きしめて「大丈夫」と繰り返していると、揺れが弱まってきた。

今しかないと思い、息子を抱えて外へ出た。

アパートは線路沿いで、新幹線の高架下にあるため、アパートの中に残るのは不安で仕方なかった。

外は粉雪が舞っていて寒かった。

揺れは度々あり、外にいても感じられた。息子が冷えてしまうので、揺れのない瞬間を狙って、もう一度中へ。押し入れから毛布を抱えて飛びだした。

主人はその日は休みで、パチンコに行っていた。連絡すると今帰って来る途中だと言う。まずはひと安心。

外で待っている間、線路の向こう(方角としては東北方面)からゴゴゴゴゴ……と音が近づいてくる。地響きと共に迫ってきてドーンと揺れた。

何が起きてるのかわからない。

主人が到着して車のラジオで初めて想像をはるかに超えた被害が起きてることを知る。

 

その後、余震もあり、アパートに入るのを息子が恐がる為、車で過ごすことになった。

夜寝るときも後部座席を倒して。夜中の余震は、車だと物が倒れたりする心配はないけれど、余計に揺れて酔ってしまった。

翌日、主人は仕事。ホテルも宿泊中のお客様もいる中であちらこちらの故障があったりと大変そうだった。

お父さんが離れ離れになることを、息子はひどく不安がり、仕方ないのでホテルについていくことに。ロビーで過ごしていようかとも思ったけれど、主人が相談してくれて、特別にひと部屋貸してもらえた。

揺れることには変わらない。でも少しは安心した様子。

 

その夜は一緒に帰宅し、荒れたままの部屋を整理して、床も拭いて、いつでもテレビで最新の情報を得るため、テレビをつけたままリビングに布団を敷いて寝た。

 

そこで初めて津波のこと、原発のことを詳しく知ることになった。知れば知るほど恐かった。

 

ここは震度5強。原発事故でここも放射線量の数値は高く、だからと言って何をどうして良いのかわからないまま過ごした。

息子を守れるのか毎日不安で仕方なかった。

 

 

あの日、たくさんの人が亡くなり、たくさんの人が苦しんでた。東北で起きた地震は、当時大阪に単身赴任していた主人のお父さんの所まで揺れた。後に仲良くなった友人は津波で親族を失った方だった。

苦しくて悲しくて、それでも前に進むしかなくて、皆が皆じゃないけれど、人って強い。

 

今日、14:46、息子と黙祷をしながら、あの日のことを思い出してた。

 

あの時、「絆」の大切さを知ったはず。そばにいてくれる人の有り難さ、助け合うことの大切さを知ったはず。

今のコロナ騒動、そんなことでいがみ合ってどうするの?助け合うこと、思いやることを忘れないで。

命の大切さを忘れない。

 

津波の被害に遭われた方々やその遺族の方々に。原発事故の関連死された方々やその遺族の方々に。