SAKURAnoTUBOMIの日記

鬱病を経て、息子との不登校生活も経て、日々感じ、学び、感謝。 

本当に思ってますか?

先日、たまたま見つけたある方のブログで、素敵なことを学んだ。

 

教育についてあちらこちらの学校で講演を行う程のすごい先生の話。その先生は学校の先生方にこう問う。

「どんな先生になりたいですか?」

すると新任の先生方が目を輝かせて答えようとする。でも、

「子供達がどんな大人になって欲しいですか?」

と問うと先生方は考え込んでしまう。

 

その先生が仰ったのは、教員になる方は自分がどんな先生になりたいかばかりを教育されてきているけれど、「どんな先生になりたいか」を主体にすることで、子供達は自分が良い先生になるための手段(道具)となってしまい、思い通りにならない子供を問題視してヤキモキしてしまう。

でも、本当に大事なのは将来ある子供達がどう育って欲しいかということ。

それはそうでしょうと思うかもしれないけど、じゃあ家庭ではどうか?

心から「子供がどんな大人になって欲しいか」だけを見つめているのか。

 

じっくり考えてみた。

 

私は正直なところ、つい「自分がどんなお母さんになりたいか」を追求してしまっている時がある。

理想のお母さん像を思い描いては、上手くいっていない部分にヤキモキして、野菜を食べない息子に対して、つい「こんなに心配してるのに!」とムッとなってしまったりする。

「健康でいて欲しい」と思うのは当たり前。だけど、これが本当にそう思っているからなのかどうかが問題。

一見、子供の体を心配して親の務めを果たしてるように思えるけど、イラッとするということは「心配」だけではないはず。どこか、自分の頑張りが認められていないという不満がないか。不満というのは自分が満たされていないと感じること。ということは、イラッとした時点で自分が主体になってしまって、相手を思ってるのとは別物ということだと感じた。

それは理想通り、自分の思い通りになっていない、「こんなお母さんになりたいのに子供のせいでなれてない」と子供のせいにしてる状態だと自己分析してみた。

 

息子の不登校を始めた時、赤ちゃん返りしてひたすら泣きじゃくる息子を抱きしめる毎日。「自分なんかいなくなればいいんだ!」と泣く息子を一緒に泣きながら抱きしめることしか出来なかった。

そんな必死な毎日の中で、自然と自分の理想は剥がれ落ち、ただ1つ「何が息子の為になるか?」ということだけを考え続けた。

そうだ、そういえばそうだった。

あの頃、私の中に「私」はなく、息子が全てだった。

息子が笑顔になること。息子がずっと先でも笑っていられること。

それだけを求めて、何が息子の為かという判断基準のもと生活してた。だから、息子が失敗してもできなくても責める気なんて全く湧いてこないし、全てを受け入れることができた。

でも最近は普通に笑ってる毎日。つい油断して私の中の「私」が出てくる。欲が出て、「こういうお母さんになりたい」がまた顔を出してくる。

以前は自分のことは後回しにして息子を優先していたのに、今はどうか…(-ω-;)また自分を優先していないか。

 

はぁ…(´ヘ`;)人間だもの…ね?

だけど、その方のブログを見て考えさせられた。わかっているようで全くわかってなかったと反省。

世の中の「人のため」と思ってやっていることの何%が本気の「人のため」なのか、怪しいなぁ(^-^;)

 

相手に愛がちゃんと伝わったなら、それは正解なのだろうね。

 

(*・ω・人・ω・)